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2005年12月26日作成


プーケット 〜インド洋大津波から1年〜



PhiPhi-Island
〜26.Jan.2005〜


バンコクオフィスにて

2004年12月26日−
あの日の事は突然すぎて正直あまり覚えていない。
ただ、普通でない事が起こっている、それだけははっきりと分かっていた。

12月26日のバンコクは随分と涼しく穏やかな日曜日であったと思う。旅行代理店に勤めていたが、年末年始のピークを後に控えた時期で、客も少ない静かな一日であった。
そんな平穏を1本の電話が引き裂く事になる。
プーケットにある現地手配先より「大きな波が来て、家が流された」、というのがその電話の内容だった。正午を随分と過ぎた頃だったと思う。現地手配先もまだよく状況を把握できていなかったようで、「その他何か分かりましたら再度ご連絡ください」とその時は返した。
そこからの記憶があまりない。
ただインターネットを見ていると、速報で津波の事が記載されていた。最初、死者の数は数百人だったのがみるみるうちに数千人まで膨れ上がった。この頃になると現地手配先からも連絡が来ない。向こうでも絶え間なく来る問い合わせに追われているのだ。皮肉な事だが現地にいる人間よりも、インターネットやラジオでの情報の方が正確で早い。1人の人間ができる事など目の前に起きている事を伝える事が精一杯であると思う。
旅行代理店がするべき最優先事項は、パッケージツアーのお客の安否確認である。
まずプーケット周辺にいるであろうお客のリストを洗い出し、片っ端から電話を掛ける。幸い年末年始のピークとは少しだけずれていたのでそれほど多くの人はいなかった。
しかし現地は大混乱である。
ホテルに電話をして安否が確認できれば運がいいのだが、多くのホテルでは電話は鳴っても誰も取れない、もしくは電話すら鳴らない所もあった。日本からは現地の状況や安否確認の報告をしろとの連絡が入るが、とてもまともに回答などできない状況である。
結局休みだった多くの社員が出勤して、徹夜で安否確認が行われた。そして自分は翌27日の朝一でプーケットに飛ぶ事になる。


プーケット

パトンビーチ 〜26.Jan.2005〜
国際的なビーチリゾートとして有名なタイ・プーケットに到着したのは12月27日の午前中であった。バンコクで乗ったタクシーの中で「死者はすでに1万人を超えた」とラジオのキャスターが言っているのが分かった。大惨事である。
26日は津波の影響で使用できなかったプーケット空港だが、翌27日にはほぼ回復していた。到着してすぐその異変に気付いた。携帯が使えない。常にビジー状態なのだ。数十回掛け直してようやく電話が繋がった。しかし繋がった電話も5分ちょうどで切れてしまう。規制が敷かれているようで、やがてその規制は3分と更に短くなる。
プーケット空港の到着ロビーは平常とそれ程変わらなかったが、出発ロビーには我先にプーケットを離れようとする観光客で溢れ返っていた。ものすごい数と熱気である。しかし後々考えればここで帰ろうとしている人達は幸せな人達であったと思う。
プーケットタウンは落ち着いていた。少なくとも落ち着いているように見えた。しかしビーチに近づくにつれ街の様子が一変する。道にはガラクタや砂、車にゴミが散乱している。ビーチ際のホテルなどは廃墟のように成り果てている所もある。幸いプーケットで死体を見る事は一度もなかったが、訪れた瓦礫の下には何体か埋まっていたのは間違いないはずだ。
プーケット入りした第一の目的は安否確認だったが、バンコクオフィスの社員の頑張りのお陰でほぼ安否確認が終わり、幸運にも死者はもちろん怪我人すらほとんどいなかったとの事だ。ここからはプーケットの街やホテルの被災状況を伝えるのが仕事となる。
27日の時点でプーケットで1番活気のあるパトンビーチは立ち入り規制が敷かれていた。賑やかであっただろうその通りは津波の破壊力を知るには十分の光景をさらしている。道沿いのほとんどの店やホテルが廃墟と化しており、そこは非日常の世界であった。


再びプーケットへ

カオラックのホテル(上)とビーチ際の様子(下)
〜24.Jan.2005〜
1月中旬、再びプーケットに行く事になった。今度は3週間ぐらいの長丁場である。
再び訪れたプーケットは、津波から2週間ほど経っていたがその様相は少々変わっていた。街のゴミはほとんどなくなり、随分と綺麗になっている。気のせいか観光客も少々いる。そしてビーチで泳いでいる白人もいた。
今回の仕事はやはりホテルの最新状況を伝える事である。旅行会社としては常に最新の被災状況を把握し、いつツアーを再開するかが大切な仕事となる。
プーケットを歩いた。傾向としては、ビーチ際に建つ高級ホテルに被災が大きかった。皮肉な事にOn the beachの最高級カテゴリー(独立ビラやスイート等)が被災しているケースが多い。ビーチに近ければ近いほど、接する面積が多ければ多いほど被災が大きい。また敷地内にもたくさんのゴミや廃材が散乱し、塩水が流れ込んだ為、美しかったであろう緑の芝も枯れ、廃墟に拍車を掛けている。
病院もすごかった。
さすがに10日ほど経っているので野戦病院にはなっていなかったが、1階ロビーの壁一面に行方不明者を探すビラが貼られていた。広いロビーの一面に。その一枚一枚に家族や恋人、友人へを探す気持ちが込められていると思うとやりきれない思いがこみ上げる。さすがにここでは写真を撮る事ができなかった。
タイ最大の被災地であるカオラックやピピ島へも出掛けた。
カオラックなどはすでに悲惨さを感じる事ができないぐらいに何もなくなっていた。そこはよく白黒写真で見るような空襲後の焼け野原と変わりない。片付けや整備が多少進んでいた事もあるが、それにしても酷い有様だ。よくテレビで放映された津波のシーンもここカオラックのものが多い。そしてここで多くの人が亡くなった。


2つの日本人

大きな葛藤があった。
旅行代理店の人間として被災地に来ていても、やはり会社の為に行動するのが第一となる。そこにはホテルの被災状況を日本に伝えたり、滞在しているお客をケアしたりする事が自分の仕事となる。先にも述べたが、幸いにも勤めている会社のお客で大きな怪我人や死者は出なかった。しかし、少なからず被災したお客はいる。そしてそのお客から不満が出始めた。
ピピ島で被災し、プーケットにやって来たA氏。当然その日はプーケットタウンでも泊まるホテルもなく、どこもすべて満室であった。かろうじて探し出したホテルに宿泊してもらったのだが、そこが気に食わなかったらしい。「旅行会社としてお客をあのようなホテルに泊めるなど、どういうことだ!」と憤慨。
津波の為予定していたオプショナルツアーに参加できなくなったB氏。「楽しみにしていたんだが、本当に行けないのか?だったら返金しろ」。
被災状況を報告する仕事とともに、そんなお客の相手をする事が多くなっていた。
何をやっているんだ、と思った。プーケットの病院では、それでもまだ廊下にまではみ出たベッドが並び、多くの人が包帯に包まれて横になっている。少なからず日本人被災者もいた。ここで下手なタイ語だがそれでも通訳でもすれば、少しは人の為になるかもしれない。すでに病院内には各国のボランティアが来ており、その中には通訳ボランティアも見かける。1人では何もできないが、もしかしたら街の瓦礫を1つでも片付ければそこに行方不明だった誰かの、大切な人を見つける事ができるかもしれない。たくさんの被災地を見て回るうちにそう思うようになっていた。
人として、今すべき事は何か?
お客からの苦情を聞きながら自分と葛藤する日々が続いた。

国際観光地プーケットというぬるま湯に慣れてしまった為であろうか、ホテルを始めとした多くの観光業の関係者は自ら鼓舞する力を失っているように思えた。どこへ行っても言われた言葉が、「いつになったらお客さんはプーケットに戻ってくる?この状況を何とかして欲しい、助けて欲しい・・・」だ。最初の頃は旅行会社の人間としてお客を送る事がプーケットの復興に繋がると思い真摯に話を聞いていたが、やがてあまりにも多くの人が同じセリフ、他力本願なのを見て終いには呆れてしまった。自分達で努力する、何とか頑張ろう、そういった気持ちがほとんど感じられなかった。
その中でとあるホテルの日本人女性スタッフ。彼女は違っていた。常に前向きに考え、今こそプーケットの日本人が集まるべきと考え、メールなどをいろいろな人に送り行動していた。どれだけの人がそれに賛同したかは分からないが、彼女の姿だけが最後まで強く印象に残った。


1年が過ぎた今でも多くの人が行方不明である。
死者18万人。想像を絶する数だ。そしてその数以上に涙を流した多くの人がいる。そして願わくばその数以上に心温まる話や涙が流れていて欲しいと思う。とても悲しい事だが去って行った人達はもう帰ってこない。月並みな言葉だが、今は残された人間が精一杯生きる事が大切に思う。大切な人の為に。

津波で亡くなった人達の冥福を祈ります。




プーケットのホテルにて
〜18.Jan.2005〜





追伸

2011年3月11日、日本の東北地方で巨大地震、そして津波が起きた。
戦後最大と言われる災害で万単位の死者が出ている。地震、津波を見る度にインドシナの大津波を思い出す。

ニュースを見ていて少し気になったことを書いておこうと思う。
民度の高い日本では、避難所や被災地でも秩序ある行動が行われ、世界各国から驚きの声が上がっている。
日本人からすればそんな事は当たり前だと思う。被災してただでさえ苦しい時に、その悲劇の被災者をさらに地獄に落とすような行為など、普通できない。
でも、よくよくニュースを読んでいると、やはりいるようだ「火事場泥棒」が。
現金を盗まれたとか、停めてあった車からガソリンを盗られたとか、だ。
残念としか言いようがない。そして悲しい。

2005年に被災したプーケットに行った時だ。
とある被災した豪華ホテルに行った。そのホテルは津波をまともに受け、ほとんど跡形もなく破壊され、荒野同然となっていた。被災状況を調べる為に、そのガラクタの中を歩く。
そして見つけた。
20バーツ札、を。
拾った。一応拾った。でも、拾った瞬間から、「このお金は持っていたらダメだ」と感じた。
このお金は被災した悲しい人たちのお金。自分が持っていてはいけないお金。このお金を持っていたら、それこそバチが当たるんじゃないかと思った。帰りに空港の募金箱にそっと入れてきた。

今、被災地で盗みを働いている人は、何を感じながらそういうことをしているのだろう。
目の前に広がる荒れ果てた荒野に、被災した人の悲しみの声や涙は感じないのだろうか。
そんな人がいることが、本当に悲しい。
日本全体が辛い時。日本全体で悲しみや苦しみを分け合わなければならないはず。復興に向けて希望を欲しがっている人々に、そんなつまらないニュースを見せたくはないし、僕らも見たくない。

辛い時ですが、みんなで一緒に頑張ろう!


2011年3月29日

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