小説・イサーン記(2) のんびりと旅がしたい。 決して贅沢な旅ではなくていいので、ゆっくりと旅がしたい。 これは旅なのだろうか。 男は切に思った。 だがそんな旅ができないからこそ、男の望む旅は尊いものであり、そして大きな力にもなった。 そこまで男が知っていたかどうかは分からない。 目覚めの悪い朝だった。 よく眠れたはずだったが、やや体が重い。まだ昨日の疲れが残っているのだろうか。体はまだベッドを欲しがっている。昨晩のうるさいカラオケとは対照的に、部屋は時が止まったように静かだ。カーテンの隙間から入ってくる日光が少し眩しい。 何時だろう。男はゆっくりと時計を手に取った。針は8時を指している。簡単に顔を洗うと男は朝食券を持って部屋を出た。 フロント奥にある朝食会場に着くと、すでに多くの先客で賑わっていた。 ほとんどがタイ人である。外国人の姿は見られない。会場はやや暗く、お世辞にも上品とは言えない飾り付けが至る所に見られる。入り口に誰も立っていなかったので、男はそのまま壁際の机に座り、近くの従業員に朝食券を渡した。
部屋に戻り、シャワーを浴びると既に9時を過ぎようとしていた。男は慣れた手つきで荷造りをすると、ホテルをチェックアウトした。 短期間の旅なので今日も忙しい。 まずは非常に不本意なのだが、もう帰りのバスの予約をしなければならない。連休中でもあるし、帰りの足が確保できなければ大幅に日程を変更する必要もある。切符が取れ次第バーンチアン遺跡、そして今日中に国境の町ノンカーイまで行くつもりだ。 ホテルを出るとむわっとした重い空気が男の体を包んだ。雲ひとつない快晴ではないが、それでも日光が痛く感じる。やはり南国だ。数歩歩いただけでじわっと汗が出る。男は昨晩真っ暗だった通りを少し歩いて、やはりトゥクトゥクを拾う事にした。西バスターミナルまで、と行く先を告げると60Bという返事が返ってきた。昨晩と同じ価格である。これが妥当な価格なのか。 朝日を受けたウドンターニーの街は変わって見えた。 風に吹かれていても肌に重くのしかかってくる熱気。その熱気をさらに熱くしている自動車の排気ガス。人々の声、たくさんの看板。それらすべては決して多くはないが、男を熱くさせるには十分だった。 15分ほどで西バスターミナルに到着した。ここも昨晩とは打って変わって活気に満ち溢れていた。 多くの商店や食堂、バス会社オフィス。たくさんのトゥクトゥクとたくさんのバス。そしてたくさんの人。昨晩の死んだような光景を思い出すと、もしかしたらバスターミナルは眠っていたのではないだろうか、と男は思った。 幸い男の住む街を通るバスがあり、すぐに切符も購入できた。395Bと安かったのが少し気になる。 バスターミナルを歩いているうちに、男はあることに気付いた。 ソンテウがある。 ソンテウとは乗り合いトラックみたいな乗り物である。ピックアップトラックの荷台を改造して、そこに人々が向き合うように座れるようにしたものである。トゥクトゥクとは違い大体走るルートが決まっているが、その分安い。降りる時はどこかについているブザーを鳴らすと、運転手が適当な場所で止まってくれる。慣れれば大変便利な乗り物だ。昨晩は暗くてあったかどうか分からないが、今日はこれに乗ろうと男は思った。目指す旧バスターミナルはかなり遠い。 結局、随分と乗り間違え、時間は掛かったが無事到着する事ができた。一乗り8Bと安かった為、数回間違える程度ではなんともない。お陰でウドンターニーの街の概略が頭に入った。
旧バスターミナルの近くに、バーンチアン行きのソンテウが出ている。 男は熱気溢れる通りを小さなカバンを背負って歩いた。すでに10時半を過ぎており陽は高い。当然男の額や背中は汗でぐっしょりしている。手にしたミネラルウォーターもみるみる減ってゆく。 しかしいくら探しても、肝心のバーンチアン行きのソンテウが見当たらなかった。 地元の人に場所を聞き、バスを確かめ、何度も同じ通りを往復したが、やはり見つからない。汗だくになった外国人を見て気の毒になったのか、数名のタイ人が一緒に近くの人に聞いてくれた。結局、この日はソンテウがないらしい事がわかった。理由も定かではないようだ。日曜日だった為か、それとも訪れる人が少ない為だろうか。どちらにしろ、サコンナコンという場所へ行く長距離バスに乗って、途中で降りて行くしかないらしい。サコンナコン行きのバスが出るのが旧バスターミナル。近くて良かった、男はほっとした。 旧バスターミナルは、その名の通り古い。 街中にあるので昔に造られたものだとは容易に想像がつくが、古い上に狭い。ぎっしりと立ち並んだ建物の中に、恥ずかしむようにひっそりと佇んでいる。狭くて暗い。だが活気がある。その活気は先の西バスターミナルよりも賑やかだ。そしてこの狭い空間に、これでもかと言わんばかりに人やバスが密集している。たくさんの小さな商店。物売り。花売り。バイクタクシーの群れ。熱気。暑さは既に耐えがたいものになっていたが、男はその活気を含んだ熱気は嫌いではなかった。いかにもアジアらしい混沌さがある。汚いが、そこには男を安心させる何かがあった。 サコンナコン行きのバスはすぐに見つかった。 「16」と書かれたゲートから出るようだ。すぐにバスに乗り込む。発車まで30分ほど時間があったが、幸い冷房の効いた車内で待つことができた。バスには数名乗っていただけなので、男はできるだけ前の椅子を確保した。降りる場所も分からないので、できるだけ運転手やもぎりから目立つ場所にいなければならない。後ろ座ってしまうと、忘れられてしまう可能性もある。それに当然の事ながら前の方が揺れが少ない。長距離バスに乗る際には間違っても後ろなどに座ってはならない。男は一口水を口に含むと、冷房でひんやりしている椅子に腰掛けた。 工事でたくさんの砂埃を上げているウドンターニーの大通りを過ぎると、バスは田園風景の中をまっすぐ伸びる幹線道路を走り出した。イサーン(東北部)=貧しい、という構図がどうしても頭から離れなかったが、こんな田園風景の中にも建売の真新しい家々や、工場が時々目に入ってくる。とても貧しいとは思えなかった。 バスに乗るとすぐに眠くなってしまうのが男の癖だったが、時折見せる「バーンチアン」の文字の入った看板を見つける度に、どうしても心がはやり眠気どころではなくなる。この世界遺産を訪れる前の何とも言い難い気持ちの高ぶりが、男はとても好きだった。旅の醍醐味だろう。しかし不思議な事に気持ちが舞い上がれば舞い上がるほど妙に落ち着き、そして周りの風景などは鮮明に頭に入ってくる。興奮により感覚が敏感になっているのだろうか。どちらにしろバーンチアンまでのこの1時間、男にとっては極めて貴重な時間である。 やがて、ややオカマに似たもぎりが高い声を上げて「降りろ」と言う。何の変哲もない三叉路だが、すぐそこにバーンチアンがあるのは間違いない。男は暑い日ざしが照りつける中、ゆっくりとバスを降りた。 データ: ウドンターニー市内のソンテウ:8B(距離に関係なく一律) サコンナコン行き長距離バス(バーンチアン三叉路下車):40B 小説・イサーン記(3)へ Homeにもどる |