小説・イサーン記(4) ウドンターニーを出たバスはノンカーイに向け、何の特徴もない幹線道路を北へと走っていた。山でもない、かといって街でもない、雑然と民家や学校などが点在する幹線道路。単調な風景の連続に男はその乗車時間の半分以上を眠って過ごした。 約1時間後の16時、バスは予定通りノンカーイのバスターミナルに到着した。数年前にラオスに渡る為に訪れた場所である。当時は通過したのみだったのであまりはっきりした事は覚えていなかったのだが、それでもバスターミナルにあるラオス行きバス乗り場に描かれたラオス国旗をはっきりと覚えていた。 国境の町ノンカーイ。 大いなるメコン川を挟み、対岸にはラオスの大地が広がる。多くの旅人がここを訪れる理由は、やはり多くはラオスを目指す為であろう。ラオスはタイ語も通じてしまうほどタイに似たところの多い国だが、タイにはない多くの魅力を持った国である。 やや曇り空の下、男はバスを降りると、群がるトゥクトゥクの運転手の群れを抜けメコン川に向けて歩き始めた。男の教訓としてできるだけ歩く事を心掛けた。無論トゥクトゥクなどを利用する事もあったが、できるだけトラブルを避けたいので、陽のあるうちは歩く事にしている。その気になれば数キロなど誰にでも歩けてしまうものだ。 ノンカーイは小さな街である。大きな通りが2,3本メコン川に並ぶように走っている程度。もちろんすべてを徒歩で移動していては疲れてしまうが、大概は歩いて事済んでしまう。そしてメコン川沿いにはマーケットや宿屋、メコンを眺望できるレストランが並ぶ。そして多くの外国人旅行者、タイ人に交じって、我々には区別はつかないがラオス人も多く歩いている。 男は新しい町についてまずしなければならない事、「宿探し」を始めていた。 希望はメコン川沿いの宿。贅沢できるなら、窓からメコン川など眺められれば最高である。メコンを眺めながらコーヒーを飲みたい。だが考える事は皆同じなのだろう。男は川沿いの宿を幾つか周ったが、残念ながらほとんどの宿が満室であった。タイが連休に入っている事も響いているようだ。例え空きがあってもテレビがなかったりする。通常テレビなど必要ないのだが、今日はサッカーW杯決勝(フランス対イタリア)試合がある。これだけはどうしても観たかったので、テレビ付きの部屋は絶対条件であった。 しかし日も傾き始めた17時過ぎ、男の疲労はそんな男の気持ちを覆すほどのものになっていた。 川沿いの宿を諦め、街中のとある宿に宿泊した。350バーツでホットシャワーとエアコンが付いている。小さいがテレビもある。が、狭くて古い。そこそこ掃除は行き届いているが、何故か陰気臭さが拭えない。できればもう少し宿屋を周って決めたかったが、疲労と何より時間もそれ程なかったので決める事にした。 チェックインを済ませると、すぐに食事をする事にした。それほど空腹感はなかったが、早くメコン川を眺めながら一杯飲みたかった。メコン川を訪れる旅行者は多いが、その多くがメコン川を眺めながら一杯飲む事を楽しみにしている。特にメコン川の夕日は美しいことで有名で、疲れた体に冷たいビールがとてもよく合う。
ふうぅ。 贅沢な時間だ。この旅行で最も贅沢な時間を過ごしている。あいにく曇っていた為メコン川を美しく染める夕日は見れそうにないが、それでも男を満足させるに十分な条件が揃っていた。男は二口目でグラスに残っていたビールをすべて飲み干した。二口目でもうまい。ゆっくりだが、体の中をこの冷たい液体が走るのが分かる。 レストランは木造を基調としたそこそこ大きなレストランである。男が訪れた時にはまだ人は少なかったが、ビールを幾分か楽しみ、料理が運ばれて来た頃にはそれなりに人で溢れてきた。同じ服を着た従業員達が忙しく動いている。 メコン川は相変わらず茶色でゆっくりと流れている。この流れこそアジアの流れ、いや、人そのものの流れではないかと男は思う。これ以上の速い速度で流れてはいけない。流れた先には何があるのか。何を得るのか。その先の瞳に何が映るのか。日焼けで少し赤くなった男の頬が、アルコールの程よい酔いでさらに少しだけ赤くなった。男は空になったグラスにビールを注ぎ足した。 心地よい酔いと軽くなった足で、男はそのまま川沿いのマーケットを散歩した。 国境の街ということだけあり、商店の先々に並ぶ品物はタイ製のものから中国、ラオス、生産国不明なものまで様々である。多くは菓子類をはじめとした食料品である。中国語の文字がよく目立つ。安っぽい食堂に交ざり、ちょっとした屋台も並んでいる。その他には観光客を相手にしているお土産屋や、くたびれた電気製品を一緒に売っている雑貨屋など様々だ。すれ違う人々は地元の買い物客に交ざり、少数だが観光客もいるようだ。しかし、すでに夕方になっていた為人通りはそれほど多くはない。 男はマーケットを抜けた先にある、メコンを見渡す寺で一息ついた。
男はアスファルトの階段に座ると再びメコンを眺めた。 遠くにラオスの大地が見える。あの土地はすでにラオスだ。こことは違う別の国。特に我々島国の人間は国境という未知なる言葉に惹かれる。30ドル払えばラオスに行ける。ラオスはビザの必要な国だが、国境でビザ(30ドル)が取得できるので渡るのは大して難しいことではない。国境を渡って国が変わり最初に入ってくる風景は特に感慨深いものだ。ああ、ここは違う国。それはまるで旅人を興奮させてくれる媚薬のようなものだ。 行きたい。 すでに渡った事のある国境だが、男は心から目の前に広がる国への気持ちを強めた。もう数日あれば間違いなく渡っていただろう。しかし明日の夜には既に帰途のバスに乗らなければならない。メコンは無情に男の前を流れた。 データ: ウドンターニー→ノンカーイのバス:45B(旧バスターミナル発車/1時間に約1本出ている) 小説・イサーン記(5)へ Homeにもどる |